メディアリテラシー④
― カナダのメディアリテラシー概念(1)―
カナダのメディア・リテラシーの基本的な概念(カナダ・オンタリオ州教育省)(「メディア・リテラシー」カナダ・オンタリオ州教育省編、FCT(市民のテレビの会)訳、(リベルタ出版、1992年)より)を紹介しましょう。
(1) メディアはすべて構成されたものである。
メディア・リテラシーでおそらく最も重要な概念は、メディアが外面的現実の単なる反映ではなく、作られたものを提示しており、それは常に特定の目的を持つということである。これらの作品の成功はどこから見ても自然に見えるところにあるが、実際は、自然に見えてそうではなく、多種多様な決定要因と決断に沿って巧妙に構成されている。技術的視点からいって優秀な作品が多く、そのような作品に私たちが慣れ親しんでいることもあって、作品を現実の延長ではない何かとして見るのがほとんど不可能である。私たちがしなければならないのは、メディア・テクストの複雑さを暴き出し、現実と作られたものとの区別をすることである。
(2) メディアは現実を構成する。
私たちは皆、各人の頭の中で、世界とは何か、それはどう機能しているか、といったような事柄に関するイメージを思い描く。このイメージは「構成されたもの」であり、自分の観察と経験から得た感覚にもとづいて構成されている。ところが、自分の観察と経験と思っているものの大半が実はメディアから得たものであり、メディアが前もって態度、解釈、結論を決定している。こうなると、私たちではなくメディアが現実を構成することになる。
(3) オーディエンスがメディアから意味を読み取る。
メディアの理解で基本となるのは、私たちとメディア・テクストとのあいだで起こる相互作用を意識化することである。私たちはメディア・テクストを目にすると、各自、多種多様な要素を通して、そこに意味を見出す。それらの要素には個人的なニーズや不安、その日に経験した喜びや心労、異人種や異性にたいする態度、家庭的背景や文化的背景などがあるが、いずれも私たちの情報処理の仕方にかかわってくる。たとえば、2人の子どもがテレビのシリーズ・ドラマにどのような反応を示すかは、おのおのの子どもがそのテクスト(ドラマ)に何を持ち込んでくるかによって異なってくる。簡単にいえば、私たちはそれぞれのやり方で意味を見出し、その意味を「読み取る」。したがって、メディアについて教える教師は、子どもがぞれぞれ独自にテクストを経験するやり方を受け入れなくてはならない。
(4) メディアは商業的意味をもつ。
メディア・リテラシーには、マスメディアの制作の経済的基盤を意識化し、それが内容、技術、配給にどのような影響を及ぼしているかを知ることも含まれる。メディア制作は商売であり、利益をあげなければならない。例えば、テレビ産業界の場合、番組はどんなものであれ、その視聴者数によって判断されなければならない。米ネットワークのプライムタイムで放送される番組の視聴者が2000万人を割れば、一般的にいって、その番組の放送継続はむずかしい。視聴率調査や読者調査は広告主に対して特定のメディアオーディエンスに関する詳細な人口統計データを提供する。このような知識を得ることで、子どもたちは番組内容と広告主のターゲットとされている彼らの関係を知ることができるし、また視聴者の集団を市場として販売するやり方も理解できる。メディアの所有と支配、それに関連する問題についても明らかにされなければならない。カナダや他のいくつかの国では、メディアの所有権が一部の少数の人々の手に握られるという寡占傾向が強まっており、しかも複数のメディア間で所有権の系列化が見られる。この傾向が実際的に意味するのは、限られた数の個人の決定でどの番組をテレビで放送するかが決まり、どの映画を上映し、どの音楽を録音・放送するか、どの問題を調査・報道するかが決まる、ということである。たとえば、オンタリオ州の多くの市には日刊新聞が1紙しかないし、それらの新聞はどれも同じ新聞の系列下にある。このような状況では、賛否両論のある問題の報道、調査報道にとって多くの支障が生じてくる。